言語性?動作性?

投稿日: カテゴリー: 仕事, 依頼作業, 把握と対処, 服薬, 気持ちの整理, 特性, 生活

太陽の沈む海01

続けていた家でのパソコン作業は、結局その仕上げを母親の形成外科の待合ですることになって、長い待ち時間を有効に使えた。帰ってからデスクトップでファイルを見てもさほど修正すべきところもなかったので、ほぼそのまま2パターンを出力してやっと校正用原稿を相手先にお送りすることができた。

自分自身の診察に向かうとき、やっぱり運転は少ししんどい。先生に自分のことを話すのも今は少ししんどい。頭の中で物事を整理して言葉にするという作業がやりづらい感じ。ここのところ二度ほど、自分の状態をパソコンで打ったものを持って行き、まずそれを読んでもらっている。この方法は自分に合っているなと思ったので、もしかするとこれからもこの方法を続けるかも知れない。

発達障害の診断基準に「言語性」が優位か「動作性」が優位かという項目があり、僕は言語性が優位なことになっている。優位と言っても特別に優れているというわけではなくて、あくまで自分自身の中ではどうかということで、この差が大き過ぎると社会生活でいろいろと不具合に見舞われる。つまり障害があるということになる、らしい。
僕自身のそれは、ある程度囲われた環境と理解ある人の中では自分の持つ力を出しやすく、感情も表に出しやすい。けれど中立的な不特定多数の人たちの中に入ると途端に用心深くなるというのか、自分自身の立ち位置が見つけづらくなり、何か積極的にやろうという気持ちが薄れ、ただ周りから嫌われてしまわないだろうか。そうならないようにしないと・・・ということが優先順位の第一に来てしまう。そしてそんな自分自身が嫌になり、そうこうしている間に誰か自分を疎んじると思われる人ができると、途端にその集団にいるのが辛くてたまらなくなる。学校という集団が最初のそれだったし、社会に出てからもやはり集団の中に入るとそんなことの繰り返しだった。

そもそも、なぜ言語性と動作性との差が「障害」となって現れやすいんだろう。対人関係の不具合はこの障害の典型のように言われるけれど、その原因を言語と動作の得意の差と発見した人は、どうしてその結論を導き出したんだろう。
僕は若い頃から「今ここにいる自分は本当に自分自身なんだろうか?」と、鏡を見たときなんかによく思っていた。社会というものの中に入ると自分と外界との境界線は曖昧になり、自分がどういう自分でいればいいのかががわかりづらくなった。そういうことは今でもある。

リスパダールを飲み始めてからとことん考えるということが難しくなった。どのみち自分なんかがとことん考えても結局「結論」が出ることは少なくて混乱してしまう方が多いのだけれど。こうして「自分が確かにある」ことを確かめるかのように書いてきた文章も時々途中でキーを打つのがめんどくさくなったりする。

太陽の沈む海02

いつか、いろいろなことに区切りがついたら、ゆっくりと海を見に行きたいと思う。今でもそうできないわけではないけれど、考えないといけないことが多いときには、本来ならリラックスできるはずのときもなかなかそうすることができない。

太陽の沈む海03

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