いつの間にか秋

投稿日: カテゴリー: nexus5フォト不安と予測人との関わり同居犬家の改装家事特性生活

秋の木々

昨日はほとんど何もできなかった。夜中に起き出した時、洗い物をしたのみ。夏前にはできていた親の部屋掃除もずっとサボり気味で床に埃が目立っていたので、そのままだと体にもきっと悪いなあと思っていたのだけれどやはりできないでいた。昨日、母親が「マッサージに来てもらった時にかっこ悪い」と独り言ちていたのを聞いて、今日は思い切って入り口から部屋に至るまでざっとモップと掃除機をかけ、目立つ床の汚れは濡れ雑巾で拭いた。

夏の間、多分犬が持ち込んだノミが古いカーペットについて苦しめられたので、その古いカーペットは捨ててしばらくは床をそのまま出していたけれど、季節的にノミも大丈夫だろうと思って床に敷物を敷いた。うちで一番新しい床のはずなのにもう傷がたくさんついてしまっている。前は毛布を干したりしていたけれど今日はそこまではできなかった。

その前、嫌な夢を見て目が覚め、起きると父親が僕の(遅々として進まない!)外壁修繕作業(コーキングのみ)のために作った足場もどきの不安定なところを直していた。「もう大丈夫」と言って「別に今日しなくてもいいが、安定しているので」と言って出て行った。犬が寂しそうに吠えた。

庭のコスモス01

部屋掃除をしていたらなんとなく今日は動けそうな気がしてきたので、久しぶりに父親がいないと泣くかわいそうな犬を連れて川土手を少しだけ散歩した。もう木々が秋のそれになっていた。犬は、もうどうれくらいになるか、長く家でカットをしていたので一般のトイプードルとは「一線を画する存在」として貴重な姿を見せていたが、この間から父親が「一度人に頼もう」と言い出して、今はさらさらヘアーに、耳にはフランス国旗を模したような飾りまで付けてもらっている。子供の頃はカットをしてもらうとニホンザルみたいになって帰ってきたけれど、今回はそれなりにプードルらしい感じで戻ってきた。でも、父親によれば外での人気は以前の格好でも今のそれでも変わりがないらしい。

洗濯機を回してから、せっかくだしと思って安定したという手作り足場に登り一階部分の天井に近いところにある壁のひび割れにシリコンのコーキング剤を注入していく。というより、ガンでシリコンを置いた後指でねじ込んでいく。窓周りから一番水が侵入しているのは内壁を剥がしたときから分かっていたので、ひさしも含めて隙間やヒビの広がっているあたりにホームセンターの人が言っていたようにやっていく。以前からの作業も含めて、用意しておいたコーキング剤5本はもうなくなった。改めて壁を見るとあちこちに「田」の字を書いたみたいになっている。隣の家に不審に思われるのが嫌なので、隣に近い所は今日はやめておいた。これは父親が一緒にいるときで自分の心の調子のいい時にやろうと思っている。

話が前後するけれど、犬との短い散歩のときにポケットに入れておいたスマホで今日は写真を撮った。いつもは人目が気になって撮れないのだけれど、今日はほとんど人のいない土手道なので、犬に引っ張られていくつかピンボケ写真になってしまったけれどとにかく撮った。父親が駐車場の際に並べて植えたコスモスの背がだいぶ高くなっていた。nexus5を「マシュマロ」にした時、ついでにセキュリティーとカメラアプリを変えてみたのだけど、こういう近接撮影ならiPhoneもnexus5もそんなにカメラ性能の違いを感じない。nexus5の背景ボケはいい感じだと思う。

庭のコスモス02

画素数も800万あって、これは以前持っていたiPhone5sと変わらない。花弁に散る花粉の様子もよく撮れていると思う。スマホでは景色よりも植物なんかを写す方が多いのでその点ではこのカメラで十分とも言える。ちょっと気になるのは、nexusで撮った写真はgoogleがクラウドに勝手に無制限で保存してくれるのだけど、その際どうも少し色合いが変わっている(変えられている?)こと。

nexus5写真のアップ後との比較

この画像では分かりにくいけれど、左側が端末に残っている元の写真をプレビューしたもので、右側がアップロード後の写真。比べてみるとアップロード後のものは元のそれよりやや色合いがきつくなっている気がする。そして自分自身は元の写真の色合いの方が好み。なのでこれからはアップロードにももちろん頼りながら、元の写真もローカルに残していこうと思う。おそらく、googleがクラウドに写真を保存するとき、容量節約のためにサイズをやや小さくするので、そのときに色合いの変化が起こるのかも知れない。

庭のコスモス03

ちょっと「暗い」話にはなるけれど、やっぱり夏前からの調子のわるさがあんまり変わらない。こうして深夜にMacの新しいOSの機能を試したり、写真のことを考えている間はまだマシなようだけれど、それ以外の時間はそうしようと思わなくても人から言われた言葉がいつまでも気になってその「背景」が自分のどこにあるのかを知らぬ間に探していたり、自分がどうしてそんな風に知らぬ間に嫌われるのだろうかというふうに考えていたりする。

以前に「知らない間に嫌われている」というタイトルで文章を書いたように思って探してみたけれど見つけることができなかった。僕は人と関わるとこの感覚を持つ場合がよくあった。同時にふいにわいてくる強い悲哀感もあったけれど、今はそれよりも前者の感覚をよく覚える。客観的に考えるとそんなことはないはずなのに、どうしてなのか、この思いはなかなか頭を離れてくれない。

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